関ヶ原合戦跡に行ってきました(一部加筆修正しました)

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映画「関ヶ原」の公開も今週末に迫り、テレビでも予告CMがTBS中心に数多く打たれていますが、お盆で帰省した折に久しぶりに関ヶ原に行きました(名所・旧跡はどこも同じですが、意外に地元の人間は行かないものです)。

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JR東海道線で名古屋から50分弱(東京から東海道線で大船くらいですね)。天下分け目の関ヶ原駅前交差点です。

JR東海道線・関ヶ原駅前交差点

JR東海道線・関ヶ原駅前交差点

毎年冬、名神高速・東海道新幹線が大雪で乱れるたびに名前が全国放送されるので、関ヶ原をお耳にされた方も多いと思います。町内を東西に走る国道21号は岐阜県東部の瑞浪市から滋賀県の米原市までを旧中山道に沿って結ぶ、岐阜県美濃地方の大動脈ですが、豪雪地帯の関ヶ原町内では道路脇には雪捨て場が大きく取られています。

関ヶ原町の中心を走る国道21号線の路肩には豪雪地らしく雪捨て場が設けてある

関ヶ原町の中心を走る国道21号線の路肩には豪雪地らしく雪捨て場が設けてある

久々に見た古戦場の感想は昔と変わらず、「山あいで狭いなあ、本当にここに10万人(とも20万人とも)の兵隊が布陣したのかなあ?」。

決戦地~徳川家康最後の陣地跡からの景色。左手の西軍・石田三成陣地とは数百メートルしか離れていない

決戦地~徳川家康最後の陣地跡からの景色。左手の西軍・石田三成陣地とは数百メートルしか離れていない

東京ドームは収容人数4万7千人ですから、ドームの巨人戦の二倍の人数なのか、と思えてしまいます。しかし巨人戦は延長しても最長5時間、コンサートでアンコール満載でも3時間くらいです。しかし合戦は陣地を決めて陣地を築いて合戦準備を整えても戦いは時の運。何時間でも何日でも待つ場合もあります。

当時の日本人は基本的にコメや雑穀で栄養を摂っていました。合戦の場合ですと、米にして一日五合が兵糧の標準だったようです。5合のお米は約750グラム。これが10万人分となると一日75トン。トラックや鉄道も無い時代、輸送の主力は駄馬でしたが、馬一頭が運べる重量は100Kg程度。ですから10万人の兵に三食食べさせるためには一日あたり700~800頭の馬が必要だったのです。(その馬に食べさせる馬糧も必要ですね)。人が担いで運ぶ手もありますが、人が背負えるのはせいぜい30~40kg、米の運搬係(軍事用語では輜重隊(しちょうたい)と言います)だけで毎日2,000~3,000人が必要になります。

兵糧は現地調達と思いがちですが、関ケ原町は今も人口7,500人。しかも戦国時代、このような合戦の時には戦場にならない山中に住民は食料共々避難してしまいますから、選択肢にならない場合が多かったようです。

映画「関ヶ原」のキャプションに『わずか6時間で決した』とありますが、補給(兵站・ロジスティクス)を考えると短期決戦とならざるを得なかったと思います。

関ヶ原戦跡地図。狭い山間に今もJR東海道線・新幹線・国道21号・新幹線が密集している東西交通の要衝

関ヶ原合戦地図。東(向かって右)から攻める東軍を山上から迎え撃つ布陣だった

関ヶ原合戦地図。東(向かって右)から攻める東軍を山上から迎え撃つ布陣だった

 

上の地図のように、その狭い土地でなぜ天下分け目の戦いが行われたのか?

布陣図

布陣図

古来から現代まで兵法の常識では、自らより多勢の敵を迎え撃つ場合、隘路(あいろ・両脇を山に狭められた土地や道)に誘い込んで攻める戦術が常道とされてきました。大軍といえども狭い道では少人数の長い列を作らざるを得ない、今で言うと三車線だった高速道路が出口を過ぎて一車線になると大渋滞するようなものです。そうして身動きとれないでいるところを横から襲う戦術です。

石田三成もその常道に則って、東から一本道の中山道を進んでくる東軍を傘型に迎え撃つ計画だった事が上の布陣図からは読み取れます。 小早川秀秋達の寝返りが無ければ、勝敗の帰趨はわからなかったと思います。

関ヶ原古戦跡探索の起点・関ケ原町歴史民俗資料館はJR東海道線関ヶ原駅から徒歩数分

関ヶ原古戦跡探索の起点・関ケ原町歴史民俗資料館はJR東海道線関ヶ原駅から徒歩数分

駅の近くには首実検した首を葬った首塚があり、そこから数分歩くと関ケ原町歴史民俗資料館があります。ここで情報収集してからレンタサイクルを借りて(→)古戦場跡を巡るのが一番効率的と思います。

関ケ原町歴史民俗資料館館内。映画・関ヶ原のポスターも。(館内撮影禁止のためロビー風景です)

関ケ原町歴史民俗資料館館内。映画・関ヶ原のポスターも。(館内撮影禁止のためロビー風景です)

資料館では岐阜県が推進している世界三大古戦場展を開催していました。

世界三大古戦場とは、ナポレオン一世が最終的に敗退するワーテルローの戦い、南北戦争の帰趨を決めたゲティスバーグの戦い、そしてSEKIGAHARAです。

岐阜県が推進する「世界三大古戦場」展

「世界三大古戦場」展

資料館の向かいは徳川家康の最後の首実検場が綺麗な公園になっています。最初に整備したこの地の領主・竹中家とは、軍師・竹中半兵衛の子孫です。

東軍・徳川家康の首実検場跡

床几場(東軍・徳川家康の首実検場)跡

関ケ原町歴史民俗資料館前の東軍首実検場また、資料館の付近の施設や通りのあちこちにこんな案内が。

関ケ原町の各地にはこのような合戦跡地の案内がちなみに資料館のあたりの大字(おおあざ)は今も陣場野です。

関ケ原町歴史民俗資料館の位置する場所は今も陣場野と言う

役場から1kmほど北側には石田三成(映画では岡田准一さん)や島左近(映画では平岳大さん)が陣を構えた笹尾山が。

西軍・石田三成、島左近の陣が置かれた笹尾山の麓から

笹尾山の麓

島左近が陣を構えた笹尾山の麓には関ヶ原ファンの皆様が作られた馬防柵が設けられ、雰囲気を出していました。合戦の折には視界の妨げになる生い茂った樹木は伐採されていたはずなので、そこはご想像願います。

笹尾山には合戦当時を忍ばせる柵が作られていた

笹尾山の馬防柵

ちなみに山頂から石田三成が眺めた景色は;

西軍主力陣地・笹尾山頂から見た関ヶ原。低い山に囲まれ、限られた平地

西軍主力陣地・笹尾山頂から見た関ヶ原。低い山に囲まれ、限られた平地

 

西軍主力陣地・笹尾山頂から見た関ヶ原。低い山に囲まれ、限られた平地

笹尾山頂から見た関ヶ原(アップ)

景色の写真だけでは何もわからないので、笹尾山頂に掲示してある地図をあわせてご参照下さい。

笹尾山頂から見た合戦史跡位置図

笹尾山頂から見た合戦史跡位置図

 

笹尾山の西軍・石田三成陣地跡

笹尾山頂の西軍・石田三成陣地跡

そして笹尾山の麓から200mほど下った場所に、決戦地と言われる徳川家康の合戦最後の陣地跡が。

決戦地~徳川家康最後の陣地跡。西軍・石田三成の本陣は左奥の山上

籠もれる大きな城郭も無く、山に囲まれた狭隘な交通の要衝で行われた合戦。米だけで一日75トンにものぼる補給を考慮すると、合従連衡の術策を尽くしての短期決戦は必然だったと思います。

映画がそこをどう描くか、楽しみです。

岐阜県と関ケ原町は平成27年3月に策定した「関ケ原古戦場グランドデザイン」に基づき関ケ原古戦場の整備事業を進めており、映画「関ヶ原」とのタイアップもその一環です。→岐阜県と関ケ原町の事業サイト。イベント情報も満載です。

 

ちなみに関ケ原町は岐阜県の西端。滋賀県と境を接しています。名古屋文化圏の西濃地方がこの県境を越えると京都文化圏の近江に変わります。そんな県境の町、関ヶ原を象徴するように、関ヶ原ウォーランド(合戦テーマパークです)の向かいのレストランでも岐阜県が誇る飛騨牛と滋賀県が誇る近江牛が平和共存していました。

岐阜県最西端の町らしく、レストランの和牛も岐阜県の飛騨牛と滋賀県の近江牛が並んでいる